2015年7月21日火曜日

ありのままとは「在り方のまま」なのだね

流行にさえなった「ありのまま」という言葉。

私のブログのタイトルもarinomama。
練りに練ってつけたタイトルではなく、
実を言うと、その時に持っていた洋服屋さんでもらったバッグにたまたま並んでいた文字がarinomamaだっただけで・・・なんかカワイイなと思って勝手にパクってしまったという・・・すみません・・・。

でもたまたま「ありのまま」は私の生き方にピッタリだったから
arinomamaは私の周りの人達に愛されてきたブログであり言葉です(と思ってマス)。

♫ありの~ままの~♬ 
という歌が流行った時はなんとなく恐ろしかったけど・・・

ほら、日本って流行ると違う意味になって、そしてどんなにスタンダードなものでも古くなった感じになって捨てられるでしょ?

でもさすがに「ありのまま」は認識されて、その手のタイプの人達には大切に受け止められて、その手じゃないタイプの人達には意識からはずされ、また物質バリバリの世界に戻っていかれたよーですね。


今どうして「ありのまま」について改めて書いているかと言うと、
一カ月かかって読み終わった哲学の本(読みやすいはずの本なんだけど、寝る前に読んでたから何度も寝落ちし時間がかかった・笑)の最後の方に、思わずマーカーで線を引いたくらい「その通りだ」と思ったフレーズがあったから。

要約すると、

「青年期には欲望と憧れのために幸福に欠くことのできない平静を奪われるが、老年期にはそのような気持ちが鎮まり、かつては事物に対するとらわれのないありのままの見方を隠ぺい歪曲していた錯覚や幻影や偏見を脱却して、全てのものを以前よりも正しく認識し、その在り方のままに認めることができる」

という・・・私にとってのテーマの集結みたいな文章。


たまたまarinomamaにしたと申し上げましたが、
私の生き方はずっとここを目指していて、
「ありのまま」をこの本の中でみつけた「在り方のまま」とすると、もっとピッタリと私の好みになる。

この世の中もその在り方のままを見たいと思う。

それが恐ろしいものなら恐ろしいように、それが美しいなら美しいように。

人もそう。在り方が大切。
その人の本質がどうであるかが大切。

説明するまでもないと思うけど、

悪魔のような姿がありのままの私なの。だから♬ありの~ままの~姿見せる~のよ~♬♫って、悪魔のような姿を見せてくれる人はほとんどいない。

ありのままのフリをしたありのままじゃない人、こわいよ~(笑)
フリもせずでたらめの人の方がまだマシだよ(笑)

悪いけど、セルフブランディングとかゲロ吐いちゃう。
いらな~い。
作られたものより、本当の姿が知りたいわ~。

な~んて言ってるから、ピッタリくるものはホント少ない私です(^ ^;;

でもこうしてピッタリくる本に出会えるように、
本当に偶然に(いや必然なのかもしれないけど)ピッタリくる師に出会えたり、
ピッタリくる人に出会えたりするから、

ワタシこれからもこのままのスタイルで行くわ!!






 

2015年7月12日日曜日

愛なのか?ただ感覚器官の欲望なのか?

私たちの欲望というのは・・・

そっか・・・感覚器官の欲望なのか。

きっと今までにも聞いたり読んだりしていたんだろうけど、
初めて自分の欲望に当てはめてみたんだろうか?
今回Truptaに同行して彼が説明する感覚器官の話を聞きながら、頭だか心だかにガッツリと入った。

ガッツリと入ったというのは完璧に理解したという意味ではない。
わかった、と思ってもまた混乱してしまうのが私でアル。。。

このガッツリは「これやりたい」とか「これやりたくない」とか思った時に「どうして?」って考える、っていう程度だけどね。
それは何の欲求?感覚器官の欲望なんじゃない?それとも魂からきてる?とか考えちゃうっていう・・・。

そんな折、3日ほど前にヨーガセラピー講座を受講した際

「マインドとは何ですか?」

・・・ん~、マインドとは・・・と私なりに頭の中で答えを導き出していた時

「マインドとは感覚器官の欲望です」と言われ・・・

うむむ。。。
Truptaが来日中に考えていた「私が愛だと思っていたこの想いは本当に愛なんだろうか?もしかするとただの感覚器官の欲望なのでは?」という疑問に、
「しかも愛とはマインドとも違うわけね」という、またなんだか違う角度からの理解が加わったり。。。

ちょっとconfused...

まあね、確かに愛とは不思議な感情だよね、っていうかそもそも感情か?

Advanced emotionのカテゴリーに入ってるな・・・
Composed of Joy + Trust だって。その通りだな・・・


そう、なぜあんなに「愛してる♡」なんて思い込んでいたのに「いや、待てよ・・・」と思ったのかというと、このTrustがグラつく時なんだよね。
所詮私とmy raja jiの関係なんてほんの数日間のことで、普通に考えたらいまだに続いてることの方がビックリなんだけど、まぁ世の中の「普通」っていう定義もワケわかんないし・・・
自分の身の上に起こっていることを信じるだけなんだけど。

ある時あることがきっかけで「この人こんなことする時間があるくせに私にはメールもくれなかった」みたいなつまんないことで、今まで信じていたことさえ嘘だったように思ったことがあった。

何がどうであれ私が彼の事を信じられなかったことが一番の問題で、彼が実際にどうであるかはここでは問題ではない。私の愛が本物じゃないなら彼がどうであっても問題にはならないわけだから。


彼を見たい、声が聴きたい、話したい、匂いを嗅ぎたい(あるよね、これも^^)、触れたい・・・

まんま五感だよね?これ。笑

でも普通こうだよね?誰かを好きになると。

でもでも「愛」と呼ぶからにはここに違う要素が加わるのよね、きっと。
それは・・・。


私、Truptaに言ったのね。
「私、自分の愛はただの五感の欲望じゃないかって思う時があるのね。」って。

そしたらTruptaは
「愛とはcaring とsharingだ」と言い、

そ、それはウチのraja jiが韻を踏む「caring sharing respecting」と同じではないかっ!(笑)
と思ってちょっと笑えてしまったんだけど、Truptaが言うとそれはとても重みがある。
韻を踏んでる、とか茶化すような言葉には聞こえません(笑)

気遣い、分かちあうもの。か・・・。


「じゃあこんな場合は?」と私は例を挙げた。

男の人には奥さんがいて子供もいて、その人は家族に対しての責任としてちゃんといい夫と父親をしている。でも他に愛している女の人がいて、その人と一緒にいたいと言う。

うん、インドは親の決めた人とか占星術で結婚したりするから、結婚した後にそんな出会いがある場合もある。でも離婚もまだ欧米のように簡単なわけではないし、簡単なことではないね。


う~ん、それ実は私のことなんだけどね、と言うとTruptaは疲れているはずなのに、ちゃんとソファに座り直して親身になった。

どうしてこんなにいつも優しいのだ???
母親の年齢に近い女のバカな恋愛話をこんな真剣に聞いてくれるなんて(泣)

いやいやバカっぽいけど別にバカな恋愛話じゃなくて真剣な話だもんね!(笑)


感覚器官の話からズレちゃうので簡単に結論を言うと、

「マユミに愛してると言いながら、彼の妻にも愛してると言ってちやほやしているとしたら彼はただのassholeだ」と。

「彼はとてもクリアだ。後はマユミが強くあればいいだけだ。二人の関係が今後どんなふうになったとしてもマユミが傷つかないならどんな選択もOK。とにかく強くあること!」と。


よく恋愛話をする友人とは何かちょっとしたことがあると
「アスホール率高くない?」と
お気に入りのフレーズになっています(笑)


というわけで、私はとっても冷静に自分たちの関係を眺めています。
いつまで続くのか・・・再会の日があるのか・・・
自分の感情を追いかけるのも、こんな出会いや繋がりは実際どうにか進展するのか?とか、
色んなことが面白い。

ふと気づけば「人生は苦しくて当たり前」とか思い続けてきたのに
「人生はまったく面白い」になっている自分に最近気づいた。

はぁ、話はズレズレだし長くなったな。。。






 

2015年7月4日土曜日

アヒンサーから

Truptaの来日中に決めたこと。

「残りの人生はヨーガプラクティスに専念してみよ」

ってこと。

今のところこんな感じの向き合い方。
やってみよう、って感じ。
耳障りは軽いけど、内容は深いよ。
残りの人生ってことは死ぬまでってことだからね。

もう私なりに実践してるよ。
タパス。
これもヨーガだ。一度決めたらやり抜くのだ。

前から言ってたことだけど、いくら知識があったって、実践しなければ何も起こらない。何も変わらない。

実践してるつもりでも、いや本気で実践してても…それでも実際はつもり程度に過ぎないかもしれないくらい…ヨーガは深い。

ヨーガと出会って6年くらいかな?
私なりに取り組んできたつもりだったけど、理解が甘い部分や勘違いがあったり、つまらない欲や、虚栄心、恐れetcがあって、あるラインから前に進まないっていうか、結局何かコトが起これば同じように苦しんでたよな。

っていうか、ちゃんと正しいプラクティスが出来てないからコトが起きてしまう、っていうこと。

大抵の「コト」は自分にとって「コト」なだけで、別の人のマインドが
捉えれば全然意味の違うコトとして捉えられ、ましてやエネルギーレベルで考えればコトでもなんでもなかったりもする。

6月の2週間をTruptaと過ごして、
しかも日本で過ごして、
彼が日頃どんな風に時間や人や出来事を捉えているんだろう?ということを、頭ではなく、え~とこれはどこだろうな?感覚というのでもなく、なんつーか私の生命を支えているどこかがキャッチした。

これは私にとってすごいギフトだった。

私が「これからどうしようかな~」みたいなことを言った時、
彼は普通な調子で「ヨーガプラクティスをしなよ」と言った。
「アーサナのことじゃないよ。もちろんアーサナもすればいいけど僕
の言ってるのはヤマニヤマやプラーナヤーマやメディテーションのことだ」と。

僕も徐々に仕事の時間を減らそうと思ってるんだよ。
もっと自分自身のプラクティスをしたい。必要なんだ。
僕だってまだヤマニヤマさえ完璧ではないんだよ。


私はこういう彼の人間性が大好きで、これだから100%信頼しているのです。

そして私は決めたのです!

アヒンサーから始めよう!!

だって彼がヤマニヤマもまだだと言うのなら、私は間違いなくアヒンサーレベルだよ。
私、毎日誰かしらのことを少なくとも思考レベルで傷つけてるもん。自慢じゃないけどさ(笑)


ヤマニヤマと同時に他のプラクティスの時間も優先的に取っている。
ヨーガプラクティスに時間を使うことが出来ることに今とても感謝が出来て、今後の人生もヨーガプラクティスを中心に生活出来るようにしていこう、と決めた。

ちゃんと専念したらどんな風に変化するんだろう、っていうのが楽しみ!
これは来世の楽しみでもある(笑)

そして何よりも今幸せなのはその結果よりもプロセスそのものが充実してるってことだな。

結果にコミットする!とか言ってる時代に逆らってて悪いけどさ(笑)


がっちり心が定まると楽だな~。
Truptaは私にとってその存在だけでたくさんのことを教えてくれる師。

出会いをくれた何かに感謝☆